シニアさん専門のピアノ教室に切り替えて、やがて4年になります。
理由は後ほどお話ししますね。
1歳半から大人の方までピアノを通して人生レベルで46年
音楽講師をさせてもらっています。
講師歴46年。過去の方が長すぎて自分を振り返るには、時間がかかりそうです。
私はどんな経歴の人なのかお話しますね。
母と私のストーリー
父は私が3歳を迎える1か月前に心臓発作で亡くなりました。
私は父の顔も声も何にもおぼえていません。
ただ春?気持の良い晴れた日に 父の運転する自転車に乗せられ、運転する父の手につかまり、風を受けてとても気持ちが良かったシーンだけが思い出されます。
母は28歳で未亡人となり、兄と私を命がけで育ててくれました。
人生には、決断する、乗り越えないといけない事を、幼児をかかえ、守りぬく緊張感や不安を常に抱え、子供を育てて行く。全てを一人で私達を守り働き 母親をやりきり、命を削って
全てを与えてくれました。
自分が母の立場だったら同じことが出来ただろうか。出来ない。・・・
私は幸せでした。母が大好きでした。いつの頃に戻りたい?と聞かれたら、
母に甘え、のびのびと過ごした小学生の頃です。
母はオーダーの洋服の仕立てと着物の仕立ての仕事をしていました。
私の服も、成人式の振り袖、嫁ぐときに持たせてくれた和箪笥の着物、全て母の手縫いです。
和ダンスにぎっしり。
母の愛が一心に詰まっているのです。
しかし、一人では着物は着れないので
美容院で何回は来ましたが
それっきりです。
ごめんね🙏お母ちゃん。
母は仕事中にラジオを聴いていました。とりわけ野球中継が好きで、巨人のファンでした。
ヒットが出ると歓声をあげ、負けると落胆したり、見ているだけでも面白かったです。
音楽も好きで、色々なジャンルの曲を聴いています。
暑い夏も寒い冬も縫い物をして
肩こりもひどく、よく肩たたきをしました、
手では追いつかず、時々ひっくり返って足を使ったり。
母が辛くて寝込んだとき、
私は母が 死んだらどうしようと
いつもいつも不安でした。
母に抱かれて眠るのが好きでした。
幸せでした。
音楽を 始めるきっかけ
私が小学校に上がるとき園の先生が
「この子に音楽をさせたら良いと思います。感性が豊かとっても表情が豊か。感じる事を表現出来る子です。
発表会でもとても表現できて、目を弾きます。何か持っていると思います。」
この先生の一言で音楽教室に通うことになりました。
当時ラジオから斉藤秀美さん,沖浩一さんや松田昌さんの演奏するエレクトーンが新鮮で、エレクトーンが世に出たばかりで画期的な魅力ある楽器でした。
ですので、エレクトーンを習う事になりました。
しかし、世に出たばかりのエレクトーンを教える先生がいなくて、ピアノの先生に習っていました。小学2年生の時です。
家にはオルガンしかなくて、自分で足鍵盤の絵を描いて練習しました。
楽しくて楽しくて、母が褒めてくれるから尚に嬉しくて、
気がつくと2.3時間練習していました。
小学生時代
1年生の時の授業参観日。音楽の時間でした。何かとほっぺをつねる先生でした。
忘れもしないあの日。1段高い教壇にピアノがありました。(○○さん 出てきてください)
私だけ教壇に座らされ、特に何をするわけでもないのに子供ながらに不思議でした。
皆で歌った後『○○さん歌ってください』と言われ先生のピアノに合わせて思い切りお腹から声を出し、とても気持ちよく歌えて拍手をもらっていい気持ちでした。
先生は『○さんは お腹から声を出して歌えました。声は良くないけれど、皆さんは自信を持って歌ってください。はい、席に帰って』
私、声が悪いんだ・・・・それから 歌うことをしなくなりました。
母が『なんで前に出されてた?』と聞いたので『分からない』というと
『つらい事はない?あの先生、お父ちゃんの事好きだったそうで、結婚もしていないから、
いじわるするのかもしれないと聞いたことがあるよ。可哀そうな人なんだよ。我慢は
しなくていいから、何かあったら可哀そうな人と思えば許せるし、堂々としていれば子供だって、間違っていることを気づかせることが出来るから、そう思ってヨシコらしくいなさい」そう言ってくれた。
2年生 自宅の1室がYamahaの”たにさく”教室の店外教室となった。オルガンが7,8台と先生用の電気スイッチのオルガンが1台あった。
何人も子供が習いにきていた。
『私はピアノしか弾けないんですよ。エレクトーンは弾いたことがありません。でも興味はありますね。何とかエレクトーン頑張りましょう』
どんなレッスンだったか覚えていないけれど、ますます楽しくて、夢中でした。とにかく褒められた。
学校では活発に元気印で自分は正義の味方だと本気で思っていた。
間違った言葉や行動が許せず、
男子であれ、女子であれ
年上であれ
『それは おかしい!普通はこうでしょう
謝れ!』
きっと嫌われていたと思います。
なんだか、甘くて とても幼く見えて。
音楽の時間と図工で絵を描くことが好きで 担任の先生は良く褒めてくれました。
ある朝 母は体調が悪く『今日お母ちゃん辛いから休むね、行っといで。心配しなくていいから』・学校へ行きはしたけれど (お母ちゃんが、死んだらどうしよう)頭がいっぱいで窓から外に向かって(神様”おかあちゃんを助けて❣】心で叫ぶと涙が溢れて。
先生は様子がおかしい事に気づいて『どうした?』『お母ちゃん死んだらどうしよう!』
先生は『行っておいで。お母ちゃんの顔を見ておいで!』と家に帰してくれた。泣きながら先生にありがとうの気持ちで 家まで走った。
飛び込んで家に入ると母はいつものように 綺麗な着物を縫っていた。
「あれ?ど学校は?』 とっさに泣き顔を隠して『忘れ物をしたから先生がとって来いって』
『あら。』と言いながら全てお見通しだったと思う。ギュッと抱きしめてくれて、頭をなでながら『お母ちゃんは大丈夫だから。行っといで』笑って私の顔を覗き込んで両手でほっぺを包んでくれた。忘れ物も持たずに、「ウン。お母ちゃん大好き」と言って安心して学校に帰った。先生は私の顔を見てうなずいて笑ってくれた。子供ながらに感謝して心がほっこり。
本当に安心したことを覚えている。
私には5学年離れた兄がいる。やんちゃで落ち着きがなく私を見つけると(プロレス)を仕掛けてくる。首を絞められたり『チョップ‼』とか言って頭を叩かれたり、四の字固め!~まあ嫌だった。おまけに後で食べようととっておいたお菓子を『おっ頂き!』と食べてしまう。
目の上のたんこぶでしかなかった。
4年生になった頃、先生に「コンクールに出よう」と言われ、母は北陸でまだ2台しか搬入されていないという名器を購入してくれました。
当時は『贅沢して』と言われない様に親戚には内緒でレッスンに通っていたのに楽器を買うなんて人には言えなかったそうです。
母の決断と覚悟を受け、感謝の心で益々練習に熱がはいりました。
5年生でグレード6級を取得しました。
『こんな地方に素晴らしい子がいるんですね。』
試験管をしていた先生はエレクトーンの先生として”たにさく楽器店”でレッスンをするので
『いらっしゃい』と言われ楽器店でしかもエレクトーンの先生に、エレクトーンでレッスンが受けられるようになったのです。
その頃からヤマハの先生になりたい!その気持ちが強くなりました。
そして初のコンクール。訳も分からずに練習した曲で臨んだ。曲な忘れてしまった。
大きい会場に何台もエレクトーンが並んでいて、見たことのないベースが何オクターブもある大きな機種。
何人かはその機種を華麗に弾きこなし、私はどれで弾くんだろう?とわくわくしてたら一番端の小さい機種。
北陸で3台目の最高クラスの機種と聞いているのに。
金沢にはYamaha北陸支店という設備が整った大きな音楽センターがあり、そこで選ばれし講師人がレベルの高い生徒を育てているのです。
地方でやっとエレクトーンが1台の教室。先生はエレクトーンの先生でなくても教えているレベルの差だと
アカデミー生になって初めてわかることでした。
子供心に 自分とは何かが違うことを強く感じた。それからは地方の先生は自分の恥じとなるのでコンクールには出さない方針を決めたのか、一切コンクールの話はなくなった。
今に時代とは違い、検索もできず、先生だけが将来を握っていたのです。
グレード試験も素人の最上級を小学4年生でとってしまい、5.6年生の時は
コンクールも無し。ただ曲を弾くのみ。
先生には『エレクトーンの先生になりたい』と言い続けるが、たぶん先生自身がどうすれば良いのかわからなかったのでは?今となってはそう思える。どんな
ルートで先生になれるのか、昔だからわからなかったのかもしれない。
私は母と一進一退。母は命がけで私達兄弟を 育て、人生を私の音楽に掛けて。
私は受け止め結果を出す。
余裕の習い事ではなかった。
練習の日々。好きだけで弾いていられないと感じて来た時、
学校生活だけで遊んで終わる同級生が幼く見えて、その反面自分だけ取り残されている様で、しかも男の担任が嫌で仕方なくて
かつての明るく楽しくてしょうがない毎日が何か変って来たように自分でも感じていた。
中学生時代
田舎で専門の先生もいなくて、どうしたら先生になれるのか解らないまま中学生になったとき、始めて”たにさく音楽教室”で教えてくれていた先生は、先生の自宅にレッスンに通う提案をしてくれました。レッスンの時間制限があるから。
それから電車に乗って先生の自宅へ通うレッスンが始まったのでした。
これで 何かが変わる!と
大きな希望をもちました。
部活はレッスンに通う事を 優先して
早く帰れるし、絵画か好きだったので
美術部に入りました。
ある作品展で受賞し、テキストに作品が載りました。【テトラポットと海】
どんな作品展なのか、覚えていません。
吹奏楽部にも興味があって
先生にお願いして特別に掛け持ちさせてもらった。
担当の楽器はコントラバス。
しかし、固く太い弦。
指の皮が薄かったのか
血豆ができて、テープを 貼るが
破れて血が飛ぶ。
随分頑張ったのだけれど
エレクトーンが弾けないので
断念しました。
勉強は頑張っていますよ。
3年の夏
高校受験に向けて頑張っています。
中学生になってからの成績で
[荒家育英資金]に合格したと
担任から聞かされて
高校は受講料免除される権利を
得たのでした。
母に少しだけ
恩返しが出来た事が嬉しかった。
しかし 夏休み
母が倒れた。
病院に運ばれて三日三晩
眠り続けました。
疲労が重なり血圧も高く無理は出来ない状態でした。
『お母ちゃん、体に自信がない。
大学も出せないと思う。
音楽の道も続けられるか。
ごめんね。』
二人で泣いた。
「わかったよ。今までありがとう。ゆっくり休んで。大好きだよ』
でも、心は複雑だった。
頑張ってきたのに。所詮 自分は子供。
どうする事も出来ない。
初めて母子家庭という言葉が突き刺さった。そして最悪!
私の受験校が決まった。
就職も選べる高校。商業的勉強が入る。
まさか、こんなに勉強も出来ている
自分がこの高校?
何もかも力が抜けた。
練習もしたくなくなった。
母のせいでは無いが
自分の運命を呪った。
高校生時代
私は最悪だった。
一番軽蔑した目で見ていた学校。
自分より成績が良くなかった面々が
普通科,そして目指していた、
行くはずだった高校の制服は
別の子が着ている。
その子は
電車通学で反対車線に並んでいる。
あっちとこっちで手を振りながら
朝の挨拶をしている同級生。
私は制服姿も見られたくない思い。
目を合わせない様に
人と離れて立っていた。
通学路も一人で歩き
教室に入っても
ここにいる事が耐えきれず
クラスのメンバーが
バカに見えて情けなく。
しかし,意外にも
超 出来る子がいて、聞いてみた。
『なんで貴方勉強もスポーツも出来るのにこの学校に来たの?』
「だって大学へ行くより4年良いところで働いた方が稼げるし、やりたい事できるでしょう。それにここでしか商業的勉強が習えないし検定試験も受けられないし』
なるほど。皆と仲良くしてるし
とても明るくリーダー的存在。
一人孤立していることも
バカらしくなって
友達を 作ろうと思った。
紙に一言書いてくしゃくしゃにして
後ろから背中に飛ばしてみた。
?紙を拾ってメッセージを みた
彼女は『あんた面白いね』
それから一気に仲良くなって
友達が増えて。
しかし練習があり放課後はサッサと
帰るので『付き合い悪いね』
と言われて、でも練習しないと・・・
何で、自分だけ。
荒れていた。
練習も身が入らず
その様子を 見て
反抗的な態度,なんと母に当たり
散らして。見かねた兄は
拳で私の顔を殴った。
なんでわかってくれない!
私は何者?
頭では,こんなことしていても
いけないとわかっているのに
素直になれなかった。
高校その2
『先生になりたい』と訴えて続けた事でやっとその道,
ヤマハアカデミー受験の道を 教えてもらった。
光が見えた。
(こんなことしている場合ではない)
スイッチが入った。
ピアノを買ってもらい
・ピアノ個人レッスン,
・コールユーブンゲン。
・エレクトーン個人レッスン。
・楽典。
それぞれの先生にレッスンを受けて,
ひたすら詰め込みレッスン、練習の日々。
時間がない。
経済的にも母の負担が増えて
私が先生になる為の
道はこれしかなかった。
ピアノレッスンは
今まで何をして来たのか
脱力からしごかれ,ダメダメ!
鉛筆が飛んでき手を,肩を 背中を
肘を叩かれ,
叩かれて直る問題では無いけれど
出来ていないからそうなる
叩かれた感触を 辿り,
道を歩いている時もトイレもご飯の時も
脱力の状態で打鍵し良い音色を 出せる様
ももを 使って指の感覚を掴む努力を した。???こんな感じ?
これだ!
先生にやっと褒められた。
まる3ヶ月かかった。
それを掴めてからは
試験課題に向かって練習の日々だった。
そして
高3の冬,受験日の前日の夜。
急に怖くなった。
もし落ちたら
おかあちゃんの人生まで
無駄にしてしまう。
夕飯が終わって
母と向かい合って話した。
『お母ちゃん、今まで人生を 私にかけてくれて,荒れた時もあって、心配かけて。
いっぱいお金も使わせて。
ごめんね。ありがとうございました。
一生懸命頑張ったけど
もし,合格出来なかったら
ここにはいられない。
お母ちゃんの人生まで無駄にしてしまう。
ごめんね。』
母は泣きながら話した私を
抱きしめてくれて
『お母ちゃんは、幸せだったよ。
頑張ってる あんたをずっと見てきた。
いっしょに頑張れたこと、幸せだった。
大丈夫!楽しんでください。頑張った自分を信じて。思い切り弾いておいで』
頭を撫でてくれて
二人で抱き合って泣いた。
〜結果〜
北陸3県で受験者68人中12人。
合格出来ました。
嬉しかった。
電車とバスを 乗り換え
片道2時間近く。
授業料も益々かかり
母は仕事に没頭した。
無理していたはず。辛い顔も見せず。
感謝しかなかった。
途中,試験で落とされていなくなった
友達もいる。
素晴らしい先生方にレッスンを受けて
その時に感じたことは
私は回り道を したおかげで
人より力がついている事に気がついた。
トントン拍子て
何も練習せずにここに来れた
ウソみたい。ラッキーだった。
と言っていた子は
ずっと前にいなくなっていた。
回り道は悪い事ではない事を学んだ。
終了コンサート🎵で
会心の演奏🎶が出来た事に
感謝した。
ヤマハ講師となる。
演奏グレード、指導グレードを取得し、ヤマハの講師となった。
ヤマハではエレクトーンを教え、
コンクールに何人もの生徒を送り出し、
先輩の先生から
『谷は生徒を伸ばす力がある』
と言ってもらった事が嬉しかった。
ヤマハ講師になった子もいます。
23歳で結婚。
結婚なんて考えもしなかったが
夜中も音作りやリズム打ち、
入力などしていて
朝起きれなくて
講師会議にギリギリ間に合う生活。
私の結婚と子育て
それが,ヤクザな生活を していては
いけないと親戚が騒ぎだし
家に帰ると
見合い写真を持っておじさんが毎晩来ていて。
疲れ切って帰るのに、
その事が嫌で嫌で
もう どうでも良い
それで
お母ちゃんのそば、ある程度の学歴
お金はあった方が良い
それだけで決めた。
一生の事なのに・・だから
決して良い結婚ではなく
これも私が選んだ道。
娘2人に恵まれ
レッスンもしっかり
音楽教室も自宅教室も満席でした。
長女も次女もヤマハの幼児科に通い
長女はオーディションから
ジュニアオリジナル専門コースに通う事になり,上級科に進み6年間 週に4日
私がアカデミーで学んだ
金沢センターに通う事になった。
次女を 連れて
車で学校の門で待ち、宿題は
センターに着くまでに済ませ、
夜は遅くなるので
毛布を積んで、夕飯も車で済ませる生活
レッスンが終わるまで
私はオカリナを 習い、
次女は幼児科を 受講。
私は子供のレッスンと重ならない日、
自宅でレッスンをしました。
上級科になるとプロ奏者のレッスンも入り 私はヤマハを 退職する事になりました。
長女は演奏研究会で
JOCオリジナルコンサート世界大会出演したり、
演奏のほうでは全日本大会など
忙しくなってきました。
インターナショナル大会ではチャイコフスキーコンクールで日本人初優勝した上原綾子さん、Jazzピアニストの上原ひろみさんと共にステージに立ち、CDも出しました。
コンクール全国大会では、子ども出演者一人に各支部のスタッフが2.3人、プロの(渡辺睦樹師)担当講師、父兄がぞろり付いて、普通のヤマハ一講師では
見られない世界でした。
あちらこちらに有名なアーティストが
生徒を 担当してそのステージに臨みます
テレビにも何度も出演しました。
妹も姉の影響も有り、”パパのうた”でオリジナルコンサートのステージに立ち姉の演奏でうたう。こちらも,
TV出演やCDも発売されました。
子どものおかげで充実した
貴重な体験を させて頂き、
幸せな日々でした。
母にはこの事が
恩返しの形だったのかもしれません。
長女は 中学3年生
受験で進路を決めなくてはいけません。上原綾子さんのお母様は、マスタークラスを進めてくれましたが、東京が拠点で学校にはほとんど行けないが、世界の
一流の先生のレッスンが受けられ、
プロになるためのクラス。
プロの世界は厳しいし、学校へ行かない事に決断できず、しかも新聞記事に掲載されたとき(電子オルガン)とあり、ピアノは世界に通じるが、エレクトーンは通じないと改めて実感。
そして、私たちは普通の家庭。
普通のサラリーマンの旦那さんは
それまで、何も言わず金銭面でも
協力してくれました。
親の勝手かもしれないけれど
進学校を受験する事を 決断しました。
長女はレッスンを受けていた先生の好意も有り、300人の規模のステージで
これまでのオリジナル曲でリサイタルを開催して、皆さんに聴いて頂き
音楽とは別れました。
本人はプロになりたかったのですが
東京へ、プロになれるのか、
学歴がなくても
生きていけるのか?
話し合ったがまだ子供。
わかっていなかったかもしれない。
賭けには出られなかった。
無難な道を選んだ。
本人の意思を諦めさせた。
未来の不安から・・・
どんなに恨んだのだろうと思います。
けれど社会人になったら今、
『この道を選んでよかった。目指す道を
自分で見つけたから』
やりがいある仕事をしているので
(音楽講師の様な金銭面での苦労はしなくて良いので)ほっとしている。
音楽を極めたせいか
塾へも行かず、進学校理数科へ。
エレクトーンも新機種が出た頃、
わたしの中で魅力を感じられなくなり、サブとしてエレクトーンを使い
私自身、ピアノの一本に絞り練習に励みレッスンもピアノに絞りました。
ピアノ
ピアノは
奥深い、弾いても弾いても奥深く、
どの作品も素晴らしい。原点がピアノだったら良かったとつくづく感じます。
母は孫の活躍を見届けて
67才の若さで亡くなりました。
母が導いてくれた道。
私はしっかり人生を全うさせて母に
「頑張ってきたよ!」と胸をはって逢いたい。
誓ったのに、良い報告は出来ていない。
母が亡くなって25年
母と父の毎月の月命日にはお墓掃除をして花を飾り、手を合わせます。
私は母が亡くなり
心に穴が空いて ただ年月が流れた。
次女も都会へ行き、
長女もしばらく私といてくれましたが
東京で。
寂しい。
◎主人が私に与えてくれたパソコン
デジタル教材作成に繋がる。
心に穴が開いてた
ため息と涙の日々。5年経っていた。
見かねたのか『これからの時代、パソコンが使えないと。』
私を連れて大手電気屋さんに出かけたのです。
普段は何も語らず会話もなく関心もなくパソコンと会話してるような人。
どのパソコンも同じように見える私をよそに
店員の方に質問しながら『このくらいのスペックは必要‼』
なんだか高額の機種を選ぶので
『私は要らないし。何が出来るのかもわからないし。こんな高いもの買わなくていいから』
しかし、主人は『これからの時代必ず必要になるから』
さて、どこから始めれば良いのか?
丁度私を待っていたかのようにジルバー人材センターのイベント企画で
パソコンエクセル専門家による初心者にためのエクセル教室のお知らせを見つけて
ジルバーにはまだ3年あるけれど受講を申し込んで
1週間 朝9時〜午後5時までみっちり受講しました。面白くて。
試験のご案内があってエクセル4級3級を取得した。
1年経って
何と、同じ先生が小松市のシルバー人材センターでエクセル中級講座を開催されることを知り
思わず申し込み、受講することが出来ました。1週間 朝9時開始~午後5時 遠いので
結構きつかったですが楽しくてあっという間の1週間でした。
そして、エクセル2級を取得し、1級はとても難しく、白山市の先生の教室まで3回くらい習いにいき、順2級を取得しました。
当時 私は幼児さん中心に2才3才児の為の みるきぃらんどグループレッスン、
4才5才6才児の為のくっきぃらんどグループレッスン、と並行して個別ピアノレッスンセットで
レッスンしていました。紙媒体で季節のオブジェクトや季節の童謡でリズム遊びや音符遊び、工作などに取り組んで私自身がレッスンを組み立てたり、シュミレーション教材をつくったり、何より可愛い子供たちのレッスンの日々が楽しかった。
しかし問題があった。指差しカード、指差し音符。指差ししないと止まってしまうのです。
『先生はピアノを弾くから,叩いたね、読んでね!』指差しがないと止まってしまう。
音符が動いて読んでいけたら・・拍子を聴きながら次々とリズムが叩けたら・・・
全く独学でPowerPointを使ってみた.図形が動く。アニメーション機能で。
驚いた!ひらめいた!悩み解決の狙い。子供たちが拍にあわせて止まる事なく次々と読んでいく様に。5線が順番に1本ずつ出てくれば 音楽には5本の線がある事が確認できる。
ト音記号がドンと出てくる どっちの手?と聞く。〇〇手、と ちびっこが答える。
面白い!夢中でスライドを見て考え、集中して私と会話しながら学んでいます!
私のスライド教材つくりはここから始まった。
現在の私
私の子供達も独立し遠方にて好きな仕事について 私は日々やる事に追われています。
寂しさを 思い出さなくて良いです。
振り返ると・・・
人間関係には色々あります。お互い人間ですから気持ちが通じなかったり、発する言葉が誤解を招いたり、受け止めかたが違ったり。
夫婦や親子であっても。
お互いを認めていけるように
心を尽くしたいと思っています。
過去にご縁のあった生徒さんは何人になるでしょう。
コンクールで金賞、優秀賞を頂いた子も多数います。
ヤマハ時代には生徒さん達がコンクールで活躍し、講師になった子。保育士さん、そして音大に進んだ子もいます。
音楽を通して出会えた子供達の、
人生に関わっています。
私が音楽の先生であることは ある意味
奇跡かもしれません。
恵まれた環境ではなかったこと。
けれど、
最高の愛の中で育ちました。
先生になるまでに、母と乗り越え掴んだ音楽の道。
すごく回り道だったけど
人一倍努力してきたし、へこたれない
強い精神力が身に付きました。
我が子の成長過程においては、
講師としても、母としても財産となる経験が出来た事、我が子と一緒に歩めたことは財産です。
シニアさん専門のピアノ教室に
いつしか私は高齢者、シニア世代。
同世代の方が
『良いねピアノが弾けて,習わせて
もらえなかったから』
『ピアノ弾いてみたかった』
そうだ、同年代の夢がピアノなら
私なら夢を 実現するお手伝いが出来る!
同世代の方と共感して、たくさん笑って。
この教室が、頑張って来た私たちが
ほっと出来る居場所にしたい❗️
そう思ったのです。
4年前に大人のピアノ教室に切り替えて
1コイン体験レッスンのご案内し、募集したのでした。
電話がかかり
「ずっとピアノを弾いてみたかった。音符が読めないし,
指が動くかわからないですが,体験してみたいです。』
デジタル教材でわかりやすいリズムや
音符読みなど視覚から理解出来るので
「とてもわかりやすかったです。
楽しかった〜』
簡単な連弾で楽しんで頂き
満足してお帰りになってもらいます。
シニアさんの夢のお手伝い。
生徒さんは、日々上手になり、
家族が応援してくれてる事,
褒めてもらえる事、
いつも聴いてくれてる事に幸せを 感じておられます。
生活にリズムが生まれて、
生き生きして若々しくなって、
私は皆さんにパワーをもらっています。
私は幸せです。
母には感謝しかありません
音楽は、ピアノは、
生活を自分自身を豊かにしてくれます。
勝るものが無いほど
満たされた幸福を与えてくれます。
ピアノを弾ける幸せを是非味わってください。
いつからでも遅くはありません。
諦める必要はないのです。
皆さんに幸せを感じて頂きたいし、
御縁ある皆さんに出逢いたいと
心から願っています。
残り少ない時間を
ピアノで幸せに生きましょう。